この連載のライター
satsuki*
1991年、愛知県津島市生まれ。大学時代は情報理工学を専攻。2014年に名古屋のIT企業に就職し、スマートフォンのアプリ開発やロボットアプリ開発に関わる。2017年、株式会社太田七宝へ入社し、七宝焼の窯元後継者として修業中。趣味は、ディズニーに行くこととミュージカル観劇。
前回のストーリーはこちらから
→第1回 愛知の友達でも知らなかった「七宝焼って何?」
→第2回 会社を辞めて職人修行をすることを決めた理由
→第3回 自分でブランドを始めるということ
作ったものを、誰かが手に取ってくれることの喜び
思えば私は、「つくるひと」が多い家系に育ちました。生まれた時から、私のまわりにある服やかばん、日用品、家具に至るまで、両親が作ったものであふれていました。だから今でも、欲しいものがあるときはまず作れるかどうか考えます。小学生の頃はビーズアクセサリーを作ることが趣味で、お友達の誕生日にプレゼントしたり、母や祖母の友人に頼まれて指輪やストラップを作っていました。
また、父方の祖母は生け花、母方の祖母はクレイアートフラワー、祖父は書道、母はトールペイント、父は建築、叔母はフラワーアレンジメントの教室をそれぞれしており、私が中学生の頃には『家族展』と題し、地元で展覧会を開いたこともありました。
こういうことは珍しかったようで、新聞にも取り上げられました。
私がその時に展示したビーズアクセサリーがこちらです。
高校生になると、母が趣味の延長で手作り雑貨のお店を始めました。お店といっても、今は一般的になった「マルシェ」に出店する、固定の店舗を持たないお店です。年に数回の出店時には、私も制作やイベント出店の手伝いをずっとしてきました。こうした活動を通して、自分たちが作ったものを誰かが手にとってくれることがどんなに嬉しいことか、その喜びを知りました。
七宝焼を習い始めるときも、家族が「さつきは手先が器用だから、向いてるかもね」と抵抗なく受け入れてくれて、七宝焼窯元の後継者になることを決意したときも「好きなことを仕事にできるなんていいじゃない」と前向きな言葉をかけてくれたのも、こういう家庭環境だったからこそかもしれません。
私が七宝焼を始めて、特に喜んでいたのは祖父です。太田家の末子として生まれた祖父は、家を継ぐことはありませんでしたが、別の仕事をしながらも、太田七宝をずっと気にかけていたようでした。「太田七宝がなくなるのは、自分の家がなくなってしまうような感覚で寂しいと思っていたから、さつきが継いでくれるのは嬉しい。大変なことも多いと思うけれど頑張れよ」と、祖父が趣味として七宝焼を作る際に使っていた窯を私にくれました。他にも祖父が集めていた七宝関連の本や資料をたびたび持ってきてくれます。そんな祖父を見ていると、私の代で終わらせるわけにはいかないな、と思います。
作ることで、喜んでくれる人がきっといる
学生時代の友人たちに今の仕事の話をすると、やっぱり「七宝焼って何?」という反応が返ってくるけれど、興味を持ってお店に買いに来てくれたり、ご両親へのプレゼントとして使ってくれたりします。
先日は、友人から結婚式の引き出物のオーダーを受けました。ああでもないこうでもないと、どんな引き出物にするか一緒に考え、試作を重ね、ラッピングにもこだわりました。結婚式のゲストの皆様にお渡しするものなので数が多く、納期も長くは取れなかったので、一人で作るのはとても大変でした。でも、結婚式という友人の一生に一度の晴れ舞台に、私が作ったものを使ってくれることが本当に嬉しくて、やってよかったなと心から思いました。
人と比べなくていい、自分にしかできないことを見つけることの大切さ
他の窯元さんの後継者は、耳にする限り直系であることが多く、私のように普通のサラリーマン家庭に育ち、普通の大学を出て、一般企業に就職して、突然伝統工芸の後継者になる人間は珍しいと思います。
美術大学出身者ばかりのこの業界に飛び込んだ私の基礎的な知識のなさは、七宝焼を始めたばかりの私にとって、劣等感を生むだけのものでした。でも今は、逆にそれは強みに変えることができるという考えに変わってきました。知らないからこそ、何の知識も先入観もなく「こういうものが作りたい」と言ってしまえるからです。ありがたいことに、平野先生は私が言ったことに対して否定はせず、どうやったら実現できるかを一緒に考えてくれ「やってみなさい」といつも背中を押してくれます。
今年の夏から、私は彫金の勉強を始めました。金属加工の基礎を学び、ジュエリーの宝石部分を七宝に置き換えたようなアクセサリーが作れたらいいなという思いからです。宝石よりも多彩な表現ができる七宝焼と彫金を融合させたら、きっと素敵なものができると思います。七宝焼も彫金もまだまだ勉強中なので、本当に実現できるのか、どれくらい時間がかかるのかもわかりません。でも、「こういうものが作りたい」というものづくりの根本にある気持ちを大切にして、これからもいろんなことに挑戦し続けていきたいと思っています。
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